東谷釣行…8
まだ見ぬ「東谷」
早朝、彼と私は「東谷」目指して阿曽原温泉を勇んで出発した。
私のザックには、密かに、ハーケン、ボルト、シュリンゲ、ハーネス、
補助ザイル数本などの簡易な 「登攀用具一式」 を詰め込んでいた。
不要な物をテントに置いて、なるべく軽装で行く方が良かったが本来
あたためていた”熱い思い” の目的達成のためには、どうしても「登攀
用具一式」は離せなかった。ただ単に「東谷」の出合まで行くだけでは
何の意味もなくなってしまうからだ。
あれもこれも必要などと沢山ザックに詰め込むと重くなってしまう。
彼は口には出さなかったが、私を見て「なんでヨタヨタ歩いているのか」
と思っただろう。
仙人ダムの吊橋
黒部川の上流から写したものである。仙人ダムの下流の遥か
彼方の左岸に阿曽原温泉は有るが、此処からは見えない。
行程は、阿曽原温泉から仙人ダムを経て吊橋の写真右手、
黒部川本流の右岸から吊橋を渡って左岸から川原に降りた。
その対岸に東谷は流れ込んでいる。
仙人ダムまでを1時間と考えていた。仙人ダムの上流部に高さ30m位
の大きな吊橋があった。思ったよりシッカリした吊橋だった。
前述の沢登りの記録によると、「東谷」 へは黒部川を渡渉しないで
右岸に道があり、吊橋の辺りから入渓できるように記載されていたが、
それらしき道は見当たらない。泳いで渡渉する準備をしておいて
良かったのだ。
巻き道は多分廃道になってしまったか、もしくは、元々道ではなくて
迫り出した山の崖をヘヅって高巻く意味だったようである。
沢登りの連中には極自然に「道」でも、初めての者にとっては判かり
づらく、それは 「道」 では無いのかも知れない。樹々で見通しの
効かない場所をよじ登って、ヘヅリを繰り返し道に迷っていたのでは
余計な時間浪費になってしまう。
私達は予定通り釣り橋を渡って黒部川左岸から渡渉で「東谷」に入渓
することにした。此処まで約1時間半位かかった。
東谷の出合
本流の流れは想像していた程の急流に見えない。簡単に渡れそうだった。
ダムの放水前だからか、「あれなら泳がないでも渡れるかも知れない」
と思った。
川原に降りて一休みである。対岸の崖上に関電のアーチ形の排気口が
見える。その奥にトンネルが有って欅平まで通じているらしい。
「さて、それでは、いよいよ渡るか、、。」
早速2人は渡渉を開始した。流れは緩く、腰下で渡れる。斜め上流に
向かって間合いを計り、流れにやや逆らうように、方向は「東谷」の
出合左岸が目標。慎重にズリ脚で渡る。
流心を越えて川幅約4分の3位進んだ。その辺りは分流した中洲に
なっていて、その先4分の1は、どう見ても深い。近づくと淀んでいて
深いところは背丈以上は有りそうだった。
重い流れでしかも速い。身体を流れに持って行かれそうな感じだ。
とても歩いては渡れそうにない。その幅は10m位だろうか。
時間的に上流の黒四ダムの放水の前で、放水されて下流のこの辺りまで
増水すればもっと深みの幅は増すはづである。
歩いて渡るなどとんでもない。近づいてみないと判らないものである。
川幅が狭ければ移動して、上、下流の浅い渡れそうな場所を見つけられ
るのだが、浅瀬は流れが激しく深みも続いている。
予想通り泳ぐ羽目になった。浅瀬に移動して急流を泳がないで渡渉でき
れば良いのだが、万が一滑って流されては危ない。
「よし!泳ぐか!」
さっそく、上着をザックに入れて水濡れしても直ぐ乾く上下のシャツ姿に
なって泳ぐ準備を始めた。
東谷と黒部川本流との出合
下側の流れが黒部川本流、上部の沢が目指す東谷である。
黒部川は、右手上流が黒部ダム方面で、左手下流が仙人
ダム方面。
「バシャーン!」私が先に飛び込んだ。川を歩いて渉る時はズリ足で
水勢に逆らうように斜め上方に向かって渡渉するのが普通だが、この
時は、逆に上流から流されるように斜め下流を目指した。全身で流れ
に抵抗するのだから水勢を利用して短時間勝負だと考えたのである。
多分水温15℃位だと思うが冷たさは感じなかった。むしろ、真夏に汗
だくで歩いて来たせいか気持ちが良い。
抜き手を切って颯爽と、とはいかないが平泳ぎで懸命に泳いだ。対岸
に着いて、今度は彼の番だ。やはり平泳ぎ、さすが自称マスター級、
大型の少し太めのカエルは難なく到着した。
改めて言うのも変だが、
トノサマ蛙、イボ蛙、ウシ蛙、アオ蛙、ガマ蛙、ヒキ蛙、アカ蛙、
アマ蛙など蛙の種類は沢山あるけれども、皆泳ぎがうまい。
泳ぎを見ていると速くて無駄がなくて格好いい。足首の関節が柔ら
かく足の平が柔軟に返るから、水を無駄なく後方へ蹴ることができる
ようだ。また、足のひらは大きいほど推進力が有って良いらしい。
足首が硬く水をたくさん蹴れない私は、カエルを羨ましく思った。
筋肉質の痩せている体形よりも、皮下脂肪の多い(通称デブ)の方が
水に浮き関節が柔軟だから、泳ぎは上手い。
先ず手始めに「東谷」の出合付近を釣ることにした。私は第1投、茶色
の毛バリを大石の下の流れに放り込んだ。すかさずグーッと竿先を絞り
込んで穂先が止まった。逆光で良く見えなかったが、エサ釣りのような、
水面下の重い手応えである。
内心、これは大物だと思った。竿先を弛めないように慎重にスタンスを
決め、大イワナ?を引き寄せようとしたが動かない。糸を張って強引に
引く、掛かりが浅かったのか外れてしまった。確かに魚の手応えである。
彼はと見ると、黒い毛バリを上手に振り込んでいた。するとすかさず、
1尾の太った結構いい形の9寸位のイワナを掛けていた。
まず、東谷出合にイワナがいることが判かり、それから前方の滝までの間、
二人で黙々と釣ったが、彼が釣ったイワナだけで、あとは釣れなかった。
さて、行く手を遮る懸案の2連8mの滝を越さなければならない。魚止め
のこの滝を、越えられれば東谷の核心部に入渓してS氏が言った東谷の
イワナを確かめられるのである。
滝は東谷と黒部本流との出合から200mぐらいの位置にあった。
ちょっと見たところでは適当な登り口が見つからない。急な絶壁を樹に
掴まってよじ登るしか手立ては無さそうだ。
「よし!右から登ろう、あの張り出した太い樹の枝に手が届けばなんと
かなりそうだ、行こう!」二人ならば力を合わせて滝上に登れるのでは
ないかと内心期待して彼を促し同意を求めた。
これは、今までに同行した他の渓流での彼の経験や動きなどから判断し
ても普通の成り行きであり、気軽な相棒への誘い、いつもの極めて当たり
前のやりとりであった。
一般的に二人で入渓した場合、ある一定の間隔を置き、前後しながら
大小の岩を乗り越え、大概は終始無言で前方の好ポイントを目指して
釣って行く。時には落差のある滝などにぶつかっても、お互いにうまく
登り口を見つけては遡行を繰り返す。
この約8mの滝の登り口は両岸切り立った絶壁で越えにくい。だが、
普段の釣りの行動としては、あらためて躊躇する程のものではなかった。
まして、今回は二人である。
最初の難関2連8m滝の手前
「右側のハングの大壁の脇の樹が張り出している部分に取り
付いて、大壁沿いに登れば、、、。」と考えていた。
だが、なんと驚いたことに、「ここまでにしよう—。」 という彼の思い
がけない返事だったのである。私は一瞬耳を疑った。
眼前の光景に恐れをなしたのか、自分の目的遂行のみで同行者の目的は
どうでも良かったのか。
後で考えると彼は、最初から東谷のイワナなどどうでも良かったらしい。
ここで引き下がるのなら、なにも協力者は必要ない。当初の目論見通り
単独でも出来そうに思えた。
私がザイルを用意し、航空写真まで手に入れて用意周到準備していて、
同行前から私の、「東谷を目指しての執着や経緯」を充分に知っていた
筈なのにである。
もっとも、彼と二人だけの釣行は今回が初めてだが、諸事万端を整えて
準備怠り無く支障のないように計画して実行する事は、何でもないよう
だが責任もあって結構大変なのである。適当に、ただ追従するだけなら
結果の如何に関わらず比較的楽なものなのだ。
私は 「この場でゴチャゴチャ言ったところで仕方ない」 と思った。
その気のない者を無理に誘う訳にもいかない。初めての場所でもあり、
どんなアクシデントがあるかも知れない。
渓流釣りでは今まで、いろいろな危険な事に遭遇している。危ないと
感じたら引きさがるのが常道でもある。
「では、仕方が無いからそうするか、、、。」という事になってしまった。
まだ、確か9時頃だったと思うが、彼は黒部本流を渡り返して、水平道
を黒部ダム方向に2時間位上流の 「十字峡」 を観たいと言い出した。
私は、このまま阿曽原温泉まで戻って一泊し、元の道を帰るだけでは
物足りないとも思った。
あまり乗り気ではなかったが、時間もあるし「十字峡」まで行くこと
にした。 目的が「東谷のイワナ」だったから、テントその他は阿曽原
温泉に置いてきていたので、釣具とザイルと登攀用具だけの軽装だし、
手前のS字峡も実物を観た事は無く興味もあった。
「東谷のイワナは、後日、やはり自分一人で確かめれば良い、場所は
確認出来たし入渓する要領はなんとか得た。」 何でも乗りかかると
人一倍物事に集中して執着するくせに、あきらめるのも早い。
良い方に解釈して「切り替える特技?を持っている。」と認めて貰えれ
ば御の字である。
時間的に十字峡まで結構掛かるし、また、あの黒部川本流を渡らなけれ
ばならない。
私達は出合まで急いだ。
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